ナルシスとナルシスト | マイノリティ・リポート

ナルシスとナルシスト

 昨夜、デジスタを観ました。

気になったのはこんなやりとり。



 詳しいことは忘れてしまったのだけど、

 ある作品に対して、キュレーターの人、仮にメガネさんとしておきますが、その人が「ナルシシズムの塊」というような事を言ったのですが、

 それを受けて、他のキュレイター(仮に英国さんとします)は「ナルシシズムはアートにおいては当然のことだから気にすることじゃない」みたいな話をしていたのです。



 我が意を得たり、と思いました。僕も英国さんに同感です。

むしろ、何でみんなその事をはっきり言わないのだろうと、最近ヤキモキしていたところだったのです。



 文脈は異なりますが、僕はこのやりとりを、ゲルハルト・リヒターの『写真論/絵画論』における「芸術作品とはそれ自体がオブジェ、つまり客体です。」という発言を引用し、展開していきたいと思います。



 ナルシストとは、ギリシャ神話の登場人物ナルシスから派生した言葉です。

神話の中で、ナルシスは水に映った自分の姿を水の中にいる女(?)だと思い込み、一目惚れした彼は自分の影を捕まえようと入水して死んでしまいます。



 ここで、ナルシスは影が自分の姿だと気づいていない、ということに注目してください。



 そう、ナルシスは自惚れていたわけではない。

つまり、ナルシスは、実はナルシストではないのです。



 メガネさんはエンジニアだそうですから、あのプロダクト的な作品の主観性を、極度に忌避したのだと思われます。恐らく作品はアーティストの延長にあると思っている。そこで終わっている。だから作品にナルシシズムがあるという。



 しかし、英国さんは、確かに作品はアーティストの延長にある。でもそれは前提であるとしている。リヒターの言葉(文脈は異なりますが)の意味で、作品を客体と捉えている。



 というのが、お二人のやりとりを、僕が見た感想です。



 寺山修司も、確か、一番遠い所は自分の心の中だ、というような事を言っていたはず。

 ナルシスは、自分の影と気づかずに追い続ける者、つまりアーティストのメタファーであると言えるのではないか?と思いました。



 いわば、アーティストはナルシスではないか、と。



 ナルシスというと、なんか浮いた感じがしてしまいますけれど、他にどう言ってよいのかわかりません。その辺はやっぱり学者にはかないませんが。



 アーティストの中には、ただのナルシストもいるのでしょうけど、

ナルシストと言われて違和感を覚える人は「わたしはナルシスだ。」とでも言って良いような、そんな気がした夜でした。