マイノリティ・リポート -7ページ目

Josh Martinez - Splitsville

無意味な優位性、を感じる人についてのメモ

(1)足りない知恵のせいではなく、あふれる優しさが災いしたのかもしれない。
(2)知恵がなかったからではなく、あふれる優しさが災いしたのかもしれない。

↑ 字数は同じ。

(1)の「足りない知恵のせいではなく」だと”知恵は足りなかったがそのせいではない”という意味になるのに対して(2)の「知恵がなかったからではなく」ならば”知恵はあったが理由はほかにあった”という意味になる。

しかも、文章は「あふれる優しさが・・・」と続くので、前者は”白痴だったが優しかった、しかしその事が災いした”という意味になるが、後者は”頭は悪くなかったが、優しい性格が災いした”ととらえる事が出来る。

無意識の範囲かもしれないが、文章には人間性が表れる。
(1)は本日付の朝日新聞の天声人語から引用したもの、(2)はそれを筆者が書き直したものである。

【この件はいまだに変わりませんね。前任の方とは全然違います。たまに語調がかわるので何人書いているのかなと思いますが、一応一人で書いているのでしょうけど。20110611 追記】

見えないクジラ

あけましておめでとうございます。お久しぶりです。正月からだいぶ経ってしまいました。

シーシェパードの一件には呆れました。沈没した船の残骸からボーガンの矢が見つかったそうですね。人命よりもクジラの方が大事なのでしょうか。どうもクジラを大事にしているというよりは、大義を振りかざして人を傷つけようとしているように思えてなりません。

確かに、クジラを食べるのはチンパンジーを食べるようなものかもしれませんが、ではオージービーフは良いのかと。捕鯨は鹿か猪のように純粋に狩猟として行って欲しいと思います。ちなみに、僕は調査捕鯨には反対です。トドみたいな味で旨くないから。
本当に調査したいならばクジラを殺さない方法をとるべきです。

【この辺りは読んだオピニオン欄の受け売りじゃないかな。20110611 追記】

昨日「笑っていいとも!」を見ていましたら、テレホンショッキングの例の掛け合い、「そうですね!」にとても不快な光景がありました。
観客が「そうですね!」というのは約束事のようなもので、番組上そう言うのを分かっていながら、あのタモリはわざと事実に沿わない事を呼び掛け、「そうですね!」と応じた大衆に対して「うそつき!」などと罵詈雑言を浴びせていました。

土俵に上りかけた力士を蹴落として勝ったというようなもので、非常に卑劣な行為であり、彼の言動に、僕の言葉でいうワセダ的なものを強く感じました。これは彼の行いが「ワセダ的」なるものだという意味ですが、タモリが早稲田出身であるという事はあまり関係はありません。

【何かややこしいですが、勝手なルールを作って人を貶める奴が早稲田や東大出身だったりする事が多いのでこういう書き方になっています。20110611 追記】

「ワセダ的」という書き方がややこしいとしたら「茂木脳」的と言い換えてもよいでしょう。この言葉も、もちろん茂木健一郎の脳科学そのものを指しているわけではありませんが。

どうもよくわからないのは、脳科学者の茂木健一郎は事ある毎に芸術家は言い訳をしてはいけないなどと書いているにもかかわらず、本人は芸術家と親交がある事を公言したがるし、また作家とインタビューなどをして文脈の成立を殊更に持ち上げる事です。そして他人から見て面白いぐらいに感化される。

茂木と対談するくらいですから、芸術家たちもそれなりの策士でもあるでしょうが、茂木は自己の矛盾を知り、容認しているというよりも、自らの行いに矛盾がある事に気づいていないか、あるいは矛盾がある事から目を背けているが如くです。

もちろんこれは茂木擁護派にも多く当てはまります。茂木と対談するくらいですから、芸術家たちもそれなりの策士でもあるという事なのでしょうが、どこから賞をもらおうが、茂木とつるんだ芸術家は全員クズです。

あの茂木真理教の信者たちは、みな似たような行動をとります。似たような詭弁を吐き、解法が間違っているので似たような問題でいつも頓挫する。言い換えるならば、茂木の脳科学とはそういう間違いによって成立しているという事です。
この1,2年の間に茂木の子供が自殺するんじゃないかと心配しています。親はどうあれ、子供に罪はありませんから、茂木を親に持った不幸を嘆いて気丈に生きてほしいと思います。

ところで、先日朝日新聞の文化欄で「分人主義」を提唱したと書いてあった小説家は何と言いましたか。
ユーチューブをやり玉に挙げて、何度も再生される映像表情を管理して無表情になっているのだとか、そういった「茂木脳」的な、筋違いな事を言っていましたね。
監視する方がエラくて、管理される方は後ろ指を指されても仕方がないような人間なんだとか、そういうニュアンスを感じました。

しかし、僕が思うにユーチューブで自画像を投稿している人が無表情なのは、たぶんパソコンについているライブカメラを使っている事が多いからです。一人でパソコンを使っているときにニヤニヤ笑っていたり号泣していたりしたら(している分にはいいのですが、さらにネットにアップするとなると)気持ち悪いと思う。また家族がいても、録画するときは部屋で一人の時が多いだろうから、なおさら個の要素が強くなる、といったところではないかと思います。録画再生機器の普及は今に始まった事ではないと思います。8ミリフィルムしかり、家庭用ビデオしかり。テレビに出演しているタレントは無表情の人の方が少ないくらいです。

だいたい「分人主義」などといっても、要するに本音と建前を使い分けて外面良くしておけばいいという発想でしかなく、新しい事でもないし、現に2ちゃんねるや学校裏サイトとかのネット苛めなんかはそういう精神構造ゆえの陰湿さがあるわけで、その辺がわかってて「分人主義」などと言っているのだとしたら、案外その小説家も、外面だけ良くてウラではミクシィや2ちゃんねるあたりで毒づいているのかな、と思ったりしました。

ほかにも、朝日新聞の文化面では若人とかいう記者の文責で、ヨーゼフ・ボイスは作品の意味を考えていない、などとアバンギャルドな持論(もちろん皮肉です)を書いていて頭を抱えてしまいました。

このブログでは、以前にも文化面について何度か思うところを書いていますが、最近読んだ本で大江健三郎がやはり新聞の文化面の批評のダメさを嘆いていましたから、今に始まった事ではないのでしょう。新聞の文化批評はろくなものではないと割り切ってしまえば良いのですが、記者は詳しくないならないなりに、事実関係などを簡潔に書いてくれないものかと思いました。