マイノリティ・リポート -69ページ目
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あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 大晦日から元旦にかけて、借りてきた「セカチュー」を観ていました。

セカチュー、良い映画だと思います。

原作を読んでいたら感想は違ったのかもしれませんが・・・。

 小道具のテープレコーダーがよく効いていると思います。

長澤まさみさんの声の演技がとても良い。

 これは声優の演技ともまた違う、背中で演技をする、とか、目で演技をする、といった意味での声の演技だろうと思いました。

森山未来君の場合は声というよりはセリフの演技ということになるのでしょうか。

 いずれにしてもバランスが良いなと。さすが「映画監督」行定勲!
安心して観られる映画でした。






アサヒカメラと美術手帖に送って無視された論文「物語型写真集の構造」

 写真集は、文字通り写真を集めたもので、編纂するうえでは一冊を通じたテーマやコンセプト、トーンが重要とされる。

 そのなかで、写真の構成によって、作者の感情の揺らぎやストーリーをたくみに演出した写真集が生まれた。以下、この項では、そのような写真集を「物語型写真集」と呼ぶ。

 物語型写真集の典型的な例は、荒木経惟「センチメンタルな旅・冬の旅」大橋仁「目のまえのつづき」佐内正史「俺の車」などと思う。

 そのルーツはエルスケンが「セーヌ左岸の恋」で実践した映画的構成だろう。

 さながら映画のモンタージュのように、一枚の写真を1カットとして物語を紡ぎ出す。
 あるものは時系列の異なる写真を同時に展開し、またあるものは左右のページで相対するものや、相似するものを並置して相乗効果を狙う。

 写真は一枚で意味性を完結させるものだったわけだが、本という形態に着目し、表現方法を進化させたのが物語型写真集だといえるだろう。

 ところで、実は、私がこの手の写真集を読むことができるようになったのは、つい最近のことだった。

 物語型写真集の劇的な構成はその反面複雑で、免疫のなかった私には、これがいかなる形式によるもので、どうやって読むべきものなのか分からなかった。

 風景スナップや繰り返されるイメージは、見るものに何をもたらそうとしているのか?
 専門書を当たっても、感覚的な説明があるばかりで疑問に答えてくれるものではなく、私は困惑するばかりだった。

 理解できるようになったのは、養老孟司の日本語に関するエッセイを読んでからだ。

 養老孟司は日本語を、表意文字である漢字と、表音文字である仮名を組み合わせて著される非効率的な言語であるとする。その一方で、漫画が日本で発達したのは、漫画の文法が、日本語の著述形式の延長線上にあるからだとする。

 これはつまり、日本語において表意文字である漢字が、すでに絵と同じ役割を持っていたために、日本語圏の人間は、文字情報と図像情報が入り混じる漫画の形式を理解、発展させることに長けていたのだということらしい。

 もし日本語、さらに漫画の延長に写真集があるとすれば、写真をもって著述する文章=物語型写真集と言えるのではないか。私はそう考えた。

 いま述べたように日本の物語型写真集は「写真をもって著述する文章」である。
 写真を使った絵本や、サラ・ムーンの「サーカス」ようなある物語のモチーフを題材にした写真とも違う。
 発生が全く異なるのである。

 これは机上の空論かもしれないが、頭の中で写真を文字、写真集を文章と置き換えることで、私が写真集を読むことができたのは確かだった。

 写真と写真とを、捉えられた時間と時間とを、意識によってつなぎ合わせる行為。それが物語型写真集を読むということだ。

 ・・・いまにして思えば、鍵は最初から手の中にあったのだ。

 『写真家としての出発を愛にし、たまたま私小説からはじまったのにすぎないのです』
               (荒木経惟「センチメンタルな旅・冬の旅」)






ナルシスとナルシスト

 昨夜、デジスタを観ました。

気になったのはこんなやりとり。



 詳しいことは忘れてしまったのだけど、

 ある作品に対して、キュレーターの人、仮にメガネさんとしておきますが、その人が「ナルシシズムの塊」というような事を言ったのですが、

 それを受けて、他のキュレイター(仮に英国さんとします)は「ナルシシズムはアートにおいては当然のことだから気にすることじゃない」みたいな話をしていたのです。



 我が意を得たり、と思いました。僕も英国さんに同感です。

むしろ、何でみんなその事をはっきり言わないのだろうと、最近ヤキモキしていたところだったのです。



 文脈は異なりますが、僕はこのやりとりを、ゲルハルト・リヒターの『写真論/絵画論』における「芸術作品とはそれ自体がオブジェ、つまり客体です。」という発言を引用し、展開していきたいと思います。



 ナルシストとは、ギリシャ神話の登場人物ナルシスから派生した言葉です。

神話の中で、ナルシスは水に映った自分の姿を水の中にいる女(?)だと思い込み、一目惚れした彼は自分の影を捕まえようと入水して死んでしまいます。



 ここで、ナルシスは影が自分の姿だと気づいていない、ということに注目してください。



 そう、ナルシスは自惚れていたわけではない。

つまり、ナルシスは、実はナルシストではないのです。



 メガネさんはエンジニアだそうですから、あのプロダクト的な作品の主観性を、極度に忌避したのだと思われます。恐らく作品はアーティストの延長にあると思っている。そこで終わっている。だから作品にナルシシズムがあるという。



 しかし、英国さんは、確かに作品はアーティストの延長にある。でもそれは前提であるとしている。リヒターの言葉(文脈は異なりますが)の意味で、作品を客体と捉えている。



 というのが、お二人のやりとりを、僕が見た感想です。



 寺山修司も、確か、一番遠い所は自分の心の中だ、というような事を言っていたはず。

 ナルシスは、自分の影と気づかずに追い続ける者、つまりアーティストのメタファーであると言えるのではないか?と思いました。



 いわば、アーティストはナルシスではないか、と。



 ナルシスというと、なんか浮いた感じがしてしまいますけれど、他にどう言ってよいのかわかりません。その辺はやっぱり学者にはかないませんが。



 アーティストの中には、ただのナルシストもいるのでしょうけど、

ナルシストと言われて違和感を覚える人は「わたしはナルシスだ。」とでも言って良いような、そんな気がした夜でした。





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