マイノリティ・リポート -6ページ目

情報公害

「脳科学的には~」と茂木健一郎が話している事のほとんどは自分の研究ではなく、他人の研究結果や論文に書かれている事なんだけど、「誰々の研究ではこういう結果が出ている」、という言い方はまずしないので非常にややこしい。

注釈なく言っている事も根拠の薄い俗説が多い。
だから、まあー信用はできませんね。

たとえば、「天才は左利きが多い」とか。
何をして天才と呼ぶかという基準はさておいても、天才の利き腕の人口比は、右利きと左利きそれぞれの人口に比例するはず。

ビートルズを例に考えてみる。メンバーで左利きなのはポール。ジョージとジョンは右利き。リンゴは知らない。

あなたはジョンレノンやジョージハリスンが凡人だと思うだろうか?

ええ、わかっています、ジミヘンは左利きですよね。しかし、ロバート・ジョンソンは写真では右利きと確認できる。ウェス・モンゴメリーも右利き。エリッククラプトンも右利き。ヴァンヘイレンも多分右利きだろう。

左利きの人間は全員天才なのだ!と言われてしまえば反論のしようがない。というか、する気もなくなる。

茂木健一郎は、いわば情報公害だと思う。
少なくともクリーンとは言い難い。

だが、早まってはいけないのは脳科学=茂木ではないという事だ。

脳科学に詳しい人間は他にもいる。さんまのほんまでっかTVとかに出ている「脳科学評論家」の原口さんは信じる。脳科学について、茂木と言っている事が同じでも信じる。

なぜなら、メガネをかけているからである。

(↑ もちろん冗談だが)

人生ゲーム

「人のせいにするな」と言っている人間ほど実生活では人のせいにしている事が多い。これを僕は「ともさか=林檎の法則」と呼んでいる。

処世術と言った方がいいかもしれないこの法則は、タレントのともさかりえがテレビで歌っていた「都会のルール」という歌詞から名付けた。

これは”「人のせいにするな」と他人に言っている限りは自分のせいにならない”というものだ。「私のせいじゃない」でもなく「お前のせいだ」でもなく「人のせいにするな」という微妙なところを狙って責任を回避する事が出来る。

家族や職場などの中で孤立している、自分より地位の低い、自信のない、あるいは自分より劣っている(と自分で思う)人間を見つけて「人のせいにするな」と言うのが重要な点である。
相手が「私のせいではない」「誰々が悪い」などと返してくればしめたもの。「このひと逆ギレしてるんですけど」などと言いつつ、再度「人のせいにするな」と相手に言って止めを刺すのである。

この法則は、ときに負のスパイラルを生む。
「人のせいにするな」ゲームに負けた人間は誰のせいにもできなくなる。
要領の悪い者がとくにこの状態に陥りやすい。

誰も悪くないなら自分が悪いという事だ。もし、本当に自分は悪くないのに「人のせいにするな」と言われたらどうするか。「知らんがな」と言えば済む、という事にはならない。社会はそれを許さないだろう。少なくともこのゲームに巻き込まれた本人はそう思わないだろう。
それは自分が悪者になるしかないという事だ。
だから人を殺す。

なお、「人のせいにするな」の類似例として「和を乱すな」「周りに迷惑をかけるな」もある。いずれも話者が我を通したいときに用いられる場合がある。

トラウマという言葉は陳腐な使われ方をしている。
実際、陳腐ではある。トラウマにならないものなどないからだが、当事者は切実だ。恋人におぶってもらったときに、彼が「重い」と思わずつぶやいたのを耳にして女性が拒食症になってしまった、という話をラジオで聞いた事がある。映画のシナリオなら金かえせといいたいくなるようなエピソードでも実話となると事情が変わってくる。

何がきっかけでトラウマになるのか誰にもわからない。おそらく、当人にも分からないだろう。

「○○に××と言われたから」という釈明に対して、ろくに話も聞かずに「人のせいにするな」などと言うべきではない。まず事実関係を明らかにする事が解決のカギとなるだろう。

本当に、人のせいかもしれないからである。

賞ほど素敵な商売はない

写真家の篠山紀信が野外でヌード撮影を行って書類送検を受けたという。

全然偉くならないというか。身をわきまえるというところがないというか。
素晴らしい。まさにエロスの鑑である。このまま突っ走っていただきたい。そして僕が持っている篠山氏の写真集にサインを書いて欲しい。

朝日新聞に「文芸時評」というコラムがあるのだが、昨日の話題は今期「該当作なし」の芥川賞についてだった。

『2004年1月、綿矢りさと金原ひとみが同時受賞した際には「話題作りだ」という批判も出た芥川賞。だが、同賞に「話題作り」なんていう世俗の発想(またはビジネスチャンス)はないことが、よーくわかっただろう。あくまでも作品本位、お商売ぬき。文学賞はきまじめ一徹なのである(たぶん)。』(以上転載)

というよりも、賞を贈っても話題になる作家がいない、というだけの事ではないのか。

若いだけの若手もあらかた食いつぶした頃だろうし、ガイジンもハケンも使用済み。不況のこのご時世で小説が書けるのは職業作家か企業労働者ぐらいなものだろう。最近は芸人も小説を書く。

朝日新聞のこのコラムを書いている文芸評論家(自称か?)の斎藤美奈子は以前、村上春樹がエルサレム賞を獲った時のスピーチについて、どうせなら生卵を握りつぶして投げつけるくらいのパフォーマンスをしろ、といっていたはず。

村上氏が授賞式で述べていたのは「壁と卵では壁がどんなに正しくても私は卵の側につく」という事で、僕が買い被っているのでなければ、彼のいう「壁」とは、エルサレムにあるローマ軍の進軍から破壊されずに残った神殿の一部”嘆きの壁”か、イスラエルとパレスチナ自治区を隔てている”壁”、あるいはその両方であり、さらにいうならば、それらの”壁”が象徴するものを・・・イスラエルという国を・・・表している。ならば、それに対する”卵”とはパレスチナ人にほかならない。

自分で握りつぶしてりゃ世話ないんである。

無知を責めるつもりはないが、この文芸評論家は、底の浅い読解ゆえに、(人命の比喩である)卵を握りつぶして投げつけろなどという、筋違いでヒステリックな発想をするのではないかという気がしてならない。

またこの斎藤という人、男性作家が小説の中で女性を描くと、登場人物の女性の扱いにやたらと口を出す傾向がある。描写が不自然というならまだ分かるのだが、ケアが足りないとか、どうもエステに通うオバハンのような事をいう。かといって女性作家の男性の描き方に異論をはさむという事はまずない。

男は女に優しくして当然=それが男女平等という図式があるのではないか。だとしたら、ジェンダーの理解も相当浅い事になるが。
当たり前だが、これは『女性にだけ』優しい社会は男女平等ではないという意味である。責任を負って自立し、男女ともに平等な地位を得たいか、不平等でも女性に優しい社会に居たいかで違いがあるという事はおわかり頂けると思う。優しい人とか、そうでない人とかという次元の話ではない。

ちなみに、日本の写真界の大家である篠山紀信は、自身が選考を務める木村伊兵衛賞のいつかの総評で、「該当作なし」となった年を振り返り、該当作なしというのは権威的(な選考)だが、賞とは権威的なものであるから、とかなり自覚的に語っていた。

つまり、何であれ賞といえば話題づくりのものであり、実際に、受賞した作家は恩恵を受ける事になる。芥川賞などはまさにそのために創設された賞であるから、たとえ該当作なしであっても商売ぬきという事はあり得ない。

篠山紀信はどこかの文芸評論家とはえらい違いだ。しかし、この文芸評論家であっても自分が受賞作を選ぶ立場になれば、ものの見方が変わるのかもしれない。

立場が人を育てることも確かにあるだろう。
僕もそこそこ偉くなればそこそこ変わるかもしれない。

もっとも、篠山紀信はその限りではないようだが、その事にはむしろ感慨を覚える。
素直に反省しちゃうところがいいよね。