マイノリティ・リポート -3ページ目

ジャパンのスタイル

twitterで紹介されていた記事 ↓

http://megalodon.jp/2010-0216-2242-10/homepage.mac.com/dorichan/iblog/B967545526/C1452158473/E20100212144856/index.html

上の記事に関連しているかどうかは微妙ですが、僕がオリンピックの日本代表や選手個人を見ていて違和感を覚えるのは「そんなに見た目が大事か?」という事です。

国母選手が、問題になった服装で、何でああいう格好をしたかといえば、やはりそれが彼にとっての”スタイル”だからでしょう。

これはじつは日本選手団全体にもあって、たとえば上村愛子が競技の後に髪の乱れを気にしていたり、カーリングのチームに『クリスタル・ジャパン』などというキャッチコピーをつけたりしているのをみると、どうも日本人にとってのオリンピックが、競技の場というよりは、きわめて日本的な「晴れの舞台」としてあるように感じました。
あのカチューシャは実用性もあってつけているのかもしれませんが。

もちろんファッションはどの国でも気にしますが、服装に個人としての言外の意味を持たせる、または読み取ろうとするのが日本人の風習といえるのではないでしょうか。

要するに、日本人の場合

スタイル=競技内容

である以前に

スタイル=見た目

だという事です。

ゆえに、フィギュアスケートのような見た目がすべての場で本領を発揮する。
それは、まさに”演技(!)”だからでしょう。

それでもやはり、スタイル=見た目なので、難易度の高い演技をこなす技術はあっても、ユンソナやミシェルクワン(アメリカ人か?)のような官能性が女子スケート陣の演技にはない。芝居が様式化していて内面描写が薄い。かといって、競技として割り切る気持もない。

高橋大輔の演技が快楽的なのはナルシストだから(らしい)かもしれません。

見た目が大事という事は、世間からどう見られているかという事でもあるから、各スポーツのいわゆる”偉い人”たちが、面子を気にして選手を使い捨てにするのと変わらないと思うんですよね。

それはたぶん、僕でも持っているような日本的なメンタリティなのだと思います。それは卓球の四元選手やサッカーの日本代表でも同じです。

このようなメンタリティによって、日本の選手はどの競技でもそこそこの順位までいくが、最下位にならない代わりに一番にもならない、というような平均化した成績を残すのではないでしょうか。

日本を含め、多くの国では服装は所属を表します。
オリンピックに出場する選手が滞在する場所を”選手村”というように、選手本人がどの国のどの階級の人間であっても、オリンピックの開催中は所属するコミュニティが変わる。
まして、私服を着て式に出る人はいないでしょう。

逆に言うならば、徹底して競技者でなければならないはずの場にファッションを持ち込むのが”スタイル”だと日本人は考えている。あるいは「みっともないからやめなさい」ではなく、「規則で決まっている格好をしろ」などという。

そして、最近特にこの傾向が顕著になっている気がします。
国母選手の服装の問題は、その日本的なメンタリティの結果としてあるのではないかと思いました。

嘆きのメロディー  ネタンダーズ



これは・・・どうやって見つけたのか覚えてません。

無理に持ち上げないでください

本日付の朝日新聞オピニオン欄に川上未映子のインタビューが載っている。

一面の目次には”継続は力。だけど、こだわらないことが運を呼ぶ?文化系賞コレクター、川上未映子さんは、思い切りよく活動分野を変えてきた。(後略)”と書かれ、オピニオン欄には”(前略)親も子も、一日も早く自分の進むべき世界を見つけ出そうと懸命だ。だが、芥川賞作家、川上未映子さんは、周りの世界のほうが選んでくれるのだという。(聞き手・鈴木繁)”とある。

しかし本人は記事の中で
「大阪から東京に出て来て6年やっていた音楽では芽が出なくって。詩の雑誌『ユリイカ』に、スペースありますか、詩を書きたいんですと電話したんです。」と記事の中で語っている。

売り込みをしているのなら、”周りの世界のほうが選んでくれる”というのは言い過ぎではないのか。

料理人を例に挙げてみる。
栗原はるみのように、料理が得意なら料理研究家になれば?と誰かにいわれれば”世界のほうが選んでくれる”と言っていいかもしれないが、料理屋の門を叩いて板前になった人間を”世界のほうが選んでくれた”という言い方をしていいものだろうか。

しかも、音楽では「芽が出ていない」ので、文化系賞コレクターという呼称は過剰表現だろう。

川上未映子が獲得した賞は、記事に書かれているものでは芥川賞と、芥川賞の威光にあずかるようにして与えられた(ので、本人に責任はないが)キネマ旬報ベストテン新人女優賞(って何ですか?)の2つだけだ。

また記者は”今の時代、みんな早く手に職をつけたりして、安心したがってる。そこに、川上さんは音楽の世界から詩や小説に転じて賞をかっさらい、映画の女優賞まで取った”としているが、川上はインタビューの中で「家計のためにも、中学生くらいから手に職をつけたい、はやくお金を稼がないとなって思ってました。社会に出るまでの猶予期間、モラトリアムっていうのを知らないんです」と語っている。手に職をつけるどころの話ではなく、必要に迫られて社会に出て働いていた事になる。

さらに、川上は「なぜ音楽はダメだったのに書いたものは読んで読んでもらえるのかは、自分じゃ分からない。どっちも一生懸命ですしね。運もあります。もし、編集長が自然主義文学の信奉者だったら全然ダメだったでしょう」と言っているのである。

まさに”親も子も、一日も早く自分の進むべき世界を見つけ出そうと懸命”であるという事だ。どうして記者の文章と川上未映子の発言に、ここまで隔たりがあるのだろうか。

本人の発言によらず結論ありきで書かれているのではないか。
自然主義のジャーナリストの中には、取材対象である本人の話を聞かずに、物語を勝手にでっちあげる人がしばしばいるが、これもその類(たぐい)かもしれない。